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2008年03月21日

「テューリンゲン」の地名

こんな意味があったんですよね。
本当に興味深いお話です。

古代にこの地に住んでいたテューリンゲン族に由来する。テューリンゲン族は6世紀中ごろまでにフランク王国に征服され、以後東フランク王国・神聖ローマ帝国の一部として方伯領が置かれた。

テューリンゲン方伯を輩出していたルードヴィンク家がハインリヒ・ラスペの死(1247年)によって断絶すると、その後継を巡ってハインリヒ・ラスペの姪であるゾフィー・フォン・ブラバントとヴェッティン家のマイセン辺境伯ハインリヒ3世(貴顕伯)の間で継承戦争が勃発した(1247年 - 1264年)。結果ハインリヒ貴顕伯がテューリンゲン方伯位を継承することとなったが、一方で西部にはヘッセン方伯領が新設されゾフィーの息子ハインリヒ1世(幼童伯)が後にその地位に即いた。以後、ヘッセンはテューリンゲンとは別の領主を仰ぐことになる。

ヴェッティン家のザクセン選帝侯フリードリヒ2世(紳士公)の死去に伴って遺児のエルンストとアルブレヒトの間で行なわれたライプツィヒ分割(1485年)では、テューリンゲンの多くはエルンストが継承した。

16世紀、宗教改革においてテューリンゲンは重要な役割を演じた。マルティン・ルターはヴァルトブルク城で聖書のドイツ語訳を行い、1524年のドイツ農民戦争では最後の戦闘となるフランケンハウゼンの戦いの舞台となった。またシュマルカルデン同盟の主導者の一人ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ(寛大公)はテューリンゲンを領有しており、この地は反皇帝・親プロテスタントの牙城であった。ヨハン・フリードリヒ寛大公がミュールベルクの戦い(1547年)に敗れて選帝侯位を剥奪された後、エルンスト系ヴェッティン家では分割相続が繰り返された(ザクセン諸公国)。そのため政治的影響力は低下し、「テューリンゲン」という地名は単なる地域名称となっていった。

1806年、ナポレオン1世によって神聖ローマ帝国が解体されると、テューリンゲンの諸侯はライン同盟に加盟した。1815年のウィーン会議によってそれぞれ独立国としてドイツ連邦に加盟したが、テューリンゲンにあった国は12と、他の地域と比べて突出して多かった。またプロイセン王国とヘッセン選帝侯国も飛び地を持っていた。

これらの諸国は君主家の断絶などによって徐々に数が減り、1871年に成立したドイツ帝国において「テューリンゲン諸国」とは、この地にあったザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国・ザクセン=マイニンゲン公国・ザクセン=アルテンブルク公国・ザクセン=コーブルク=ゴータ公国(以上エルンスト系ヴェッティン家)・シュヴァルツブルク=ゾンデルスハウゼン侯国・シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国(以上シュヴァルツブルク家)・兄系ロイス侯国・弟系ロイス侯国(以上ロイス家)を指した。

ドイツ革命(1918年)によって君主制が倒されると、諸国はそれぞれ共和政に移行した。ヴァイマル共和政下の1920年、ザクセン=コーブルク=ゴータ公国のコーブルクを除くテューリンゲン諸国が合併して「テューリンゲン州(Land Thüringen)」が誕生した。州都はヴァイマルに定められた。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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